江戸グルメと酒と旅の話

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『北斎と応為』キャサリン・ゴヴィエ著【ブックレビュー】〜葛飾応為の物語〜

世界一有名な日本人絵師、葛飾北斎の娘

富士山を日本全国のさまざまな場所から描いた『富嶽三十六景』などで、世界一有名な日本人絵師、葛飾北斎。存命中はヨーロッパの芸術家たちにも影響を与え、その名は褪せることなく、1998年にはアメリカの雑誌『ライフ』の「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」に、日本人で唯一選ばれています。

この本は、そんな偉大な絵師の娘、葛飾応為の物語です。

江戸を生きた女浮世絵師の一生

たくましい顎から北斎からは「アゴ」と呼ばれていたという、北斎の三女の葛飾応為。幼いころから北斎の仕事を見て育ち、その後は工房を手伝うようになります。年頃になると北斎の弟子の南沢等明と結婚するも離縁。

再び北斎のもとに戻り、助手として働きながら絵師としても実力をつけていきます。北斎の弟子の面倒もみるようになり、その才能は周囲にも認められるように。

応為と交流があったと言われる同時期に活躍していた浮世絵師・渓斎英泉も浮世絵の人文録の中で、応為について「北斎の娘のもとで働く娘、名手」その実力を認めていたそう。北斎に「美人画は応為には敵わない」と言わしめたというエピソードも残されている。

ところが、父北斎の片腕となり、その陰に埋もれてしまったのか、現在確認できる彼女自身の落款が入った作品は、世界でわずか10点ほど。そのため、体が不自由であった北斎の晩年の作品の中には、応為と合作、あるいは、応為が描いた作品がかなりの数紛れていると考える研究者は少なくないそうです。

その理由として、北斎は晩年、中風を患っており体が不自由だったにも関わらず作品数が多すぎる、現存している作品のような緻密な表現は不可能、色彩や描線などが若々しい点や構図や細かな描き方などの特徴が作品によって偏っている点、などが挙げられています。

葛飾応為に関する最大の謎。北斎のゴーストペインター説

応為の作品で彩られたモダンな装丁にまず目を奪われる本書。それから、目についたのが作者がカナダ人ということ。

応為の人生は、朝井かまてさん著の『くらら』、江戸風俗研究家の故杉浦日向子さん著の『百日紅』などで何度か描かれてきました。女浮世絵師ということに加え、応為のちょっと男勝りなキャラクターはとても魅力的ですが、それに加え、前述した北斎のゴーストペインター説も、作家たちの心を揺さぶっていたのでしょう。

キャサリン・ゴヴィエもその一人で、謎解きや応為に対する強烈な好奇心に駆り立てられたと本書で語っています。さらに、このまま応為が歴史から消えてしまうことに危機感を覚えたことも執筆の動機となったそうです。

物語は歴史的事実とフィクションを織り交ぜながら応為の一人称で進んでいく。赤子の頃から始まり、少女になり、大人になり、北斎の片腕として、そして絵師として生き、ときには恋に落ち、志乃という遊女と友情を育み、父のために働き、父を見守り…と、細かな心理描写と共にそんな生き様が描かれています。

当然、当時の時代背景や風俗もしっかり描写されており、喜多川歌麿や渓斎英泉などの同時代の浮世絵師も登場し、江戸時代好き浮世絵好きとしてはぐんぐん物語に引き込まれていきました。そして、その世界にのめり込んでいくにしたがって「なぜ応為は自分の落款で絵を描かなかったのか?」という疑問が、頭から離れなくなりました。

まだ絵師になりたての頃なら、北斎の名前入りのほうが売れるからなどの理由があったと思います。しかし、ある時からは応為の名前で注文も来るようになっていたようだし、周囲もその実力を認めていた。

物語の中で、英泉も「自分の名前で絵師としての人生を歩め」ということを応為に言っています。これは作者の架空のエピソードですが、おそらく、実際に同じような進言をする人もいただろうと思います。しかし、応為は父の落款で描き続けるのです。

ある人にこの応為の落款のナゾにつて話をしたら、「絵を描くことに夢中で名前を入れるとか、名声とかどうでもいいと思ったんじゃない」という答えが返ってきました。それも一理あるかもしれません。でも、私は納得がいかなかなった。なんせ、10点ほどの作品しかその名で後世に残していないのだから。「どうでもいい」というよりかは、まるで頑なに自分の名前を入れることを拒んだようにすら思えます。

「女だから」という意識がそうさせたのか。純粋に絵を描くことへの想いがそうさせたのか。応為の北斎への愛がそうさせたのか。もしくは北斎が自分の名誉欲のためにそうさせていたのか。

どれも可能性があり、もしかしたら、その全てが絡まって応為はただ筆を動かすことだけに専念しようとしたのかもしれません。

キャサリン・ゴヴィエも、この問いに関する答えを本書にちりばめています。1番印象に残ったのは以下の箇所。

崎十郎には分かりっこないだろう。父の振る舞い、あの横暴で無礼で自己中心的な振る舞いを、私は楽しんでいたのだ。弟にはそれが苦痛だった。それにもちろん、北斎は別格だった。ほかの者なんかとは比べものにならなかった。あれだけ偉大なものの影になるってことは、陽の光のなかにいるのと同じようなものだった。
「でもな、弟よ、一つだけ言っておきたいことがある。たぶんおまえにゃ気に入らないだろうがね、この世にたった一人、私を分かってくれていた人がいたんだよ。それはお父っつぁんだ。お父っつぁんは、私の才能、ときには自分にも勝る才能を、認めてくれていたんだ」


P.224より引用

あくまでも小説中のフレーズであるものの、私は作者が描いたこの応為の心境は、核心をついているのではと思いました。

人々の魂を揺さぶる名画『雪中虎図』

2017年の秋、大阪で開催された『北斎―富士を超えて―』。この展覧会は、イギリスでも開催された世界規模のもの。海をまたいで北斎の作品が一同に集められ、特に晩年の頃の肉筆画の品揃えは、圧巻でした。この展覧会足を運んだのですが、魂を揺さぶられるような作品が次々現れ、私はいくつかの絵画を観て涙が止まらなくなりました。

その中でも特に胸に突き刺さってきたのが、『雪中虎図』という作品。虎が雪の中を飛び跳ねている様子が描かれている肉筆画です。躍動感たっぷりの虎は、ふわふわと立体感のある体つきに、まるでこれから天国へでも行くかのような、なんともいえず平和で優しい表情をしています。それでいて、哀愁も漂っておりなんだか放っておけいような…。

何なんだろうこの絵は。体ごと釘付けになり、熱いものが胸に込み上げてきて、涙が次から次へとこぼれた。

『雪中虎図』の制作時期は1849年、北斎が没する直前の作品といわれています。

しかし、キャサリン・ゴヴィエは同書のあとがきにこの『雪中虎図』は、応為の作品だと推測しています。そして、確かにそのほうが腑に落ちる、と私も思った。

虎の愛らしく優しい表情。躍動感ある若々しい描写。それから、絵を書くことへの執念から生きることへの執念も絶やさなかった晩年の北斎の絵にしては平和過ぎるような気がしました。

応為から北斎へのオマージュ

さらに、私は思ったのです。応為は、死が間近に迫った北斎へのオマージュとして、この作品を仕上げたのではないかと。だからこんなにも人の胸を打つのではないかと。

事実、『雪中虎図』は、北斎の死の間近の作品と認識されています。また、展覧会へ足を運んだ人たちからも、この作品にとんでもなく胸を打たれたという声は少なくなく、多くの人々の魂を鷲掴みしている。

父への愛、偉大な絵師への尊敬の念、画業をこなすパートナーとしての愛情、北斎といることの安心感、天国で安らかに休んでほしいという願い、そんなものが込められていたのではなかったか。

「―この世にたった一人、私を分かってくれていた人がいたんだよ。それはお父っつぁんだ。お父っつぁんは、私の才能、ときには自分にも勝る才能を、認めてくれていたんだ」

――絵師として周囲にも評価されたのちは、自らの落款を入れることは難しくなかったはずですし、北斎の死後は自由にそうできたず。それでも確認されている作品が10点あまりというのは、やはり「愛する父にだけ認められればそれでいい」そんな想いが、応為の名誉欲をごっそり包んでしまっていたのでしょうか。

料理や縫い物はできず、酒と煙管をたしなみ、器量も良いとは言えない、女らしくない女だったなどと伝えられる応為。

それでも、父との相思相愛で満たされた気持ちから、自らゴーストペインターを買って出ていたのであれば、それはものすごく“女性らしい”行為だと思います。女が日陰にいた時代だから、ということではなく、自らの献身的な想いであえてそうしていた、そうまとめてしまうのは、あまりに美し過ぎますかね……?